命より大事なもの

「いのちより大切なものはあるか?」


ある時、小型飛行機が飛行中に、エンジントラブルに見舞われた。


パイロットは、「この飛行機はまもなく墜落します。私は事故の報告をする義務がありますので・・・」と言い終わると、4つしかないパラシュートの1つを背負っていち早く飛び降りてしまった。


残ったパラシュートは3つ。残された乗客は4人。


1人の男が、「私は医者だ。たくさんの人の命を救わなくてはいけない・・・」と言ってパラシュートを背負って飛び降りていった。


残ったパラシュートは2つ、残された乗客は3人。


次の男は、「私は弁護士だ。数々の難しい裁判を勝ち抜いてきた。私を必要としている人がいる」と言ってパラシュートを背負って飛び降りていった。


残ったパラシュートは1つだけ、しかし、残った乗客は牧師と少年の2人だった。


牧師は言った。「私は長いこと神に仕えてきた。思い残すことはない。しかし、君には未来がある。パラシュートを持っていきなさい」。 


少年はいった。「牧師さん、大丈夫です。パラシュートはまだ2個残っていますよ」。


「ええっ なぜ?」と驚く牧師。


「だって、さっきの弁護士さん、僕のリュックを背負って飛び降りていきましたから」。


この牧師は、結果的にいのちが助かりましたが、パラシュートを少年に譲るという決断はなかなかできるものではありません。


しかし、それができるとしたらその理由は何でしょうか?


聖書には、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(第一ヨハネ6:16)と書かれています。


キリストが軍隊の長だとしたら、後ろに立って、「行け!」と言うのではなく、前に立って、「続け!」と言われるでしょう。


キリストがまず最初に、私たちを救うためにいのちを捨てて下さいました。その愛がわかった人は、神が愛する兄弟を救うためにいのちを捨てることも可能になってきます。


もう一つの理由は、たとい今死んでも、行き先は天国であることを知っています。だから、他者のいのちを救うために自分のいのちを犠牲にすることも可能になります。


もちろん、20億人以上いるクリスチャンのうち、どれくらいの人が人を救うために自分のいのちを捧げられるかはわかりません。「できます!」と言っている人が土壇場で翻して、死ねず。反対に、「私は信仰が弱いので、たぶんそんな大それたことはできません!?」と言っている人が、人を救うためにいのちを捨てるかも知れません。


これは、「クリスチャンになるとそのようにしなければならない!」というのではありません。もし、そうできなければクリスチャン失格だ!と言われるなら、極少数の人以外はクリスチャンになれないでしょう。


人に取っていのちが一番大切です。しかし、強いられてでもないのに、「いのちを捨てても惜しくない!」というように人を変えてしまうのは、それだけ本物の救いがあるということです。


詩人・画家である「星野富弘」さんは、大学を卒業して高校の体育教師になり、2ヶ月目に、勤務先の学校の体育館で、宙返りに失敗し、頭の骨を折って大けがをし、それが原因で体の自由を奪われ、首から下が全く動かなくなりました。


その後9年間の入院生活をしますが、なお体が不自由なままで、精神的に耐えきれないほどの苦痛に苛まれます。しかし、新たなチャレンジを始めました。口にくわえた筆で絵を描き始めました。


その絵の横に自分の詩を書きました。その星野さんが書いた詩を紹介します。


「いのちより大切なもの」


いのちが 一番大切だと

思っていたころ

生きるのが 辛かった


いのちより大切なものが

あると知った日

生きているのが

嬉しかった  (星野富弘)


「いのちよりも大切なもの」にどこに行ったら出会えるでしょうか? 星野さんは、体が不自由になった時にそれを発見しました。今、それはどこで発見できるでしょうか?


それは、教会にあります。