ルカの福音書6章36~37節

「 赦 し 」

 

人にはみな、過去があります。すべての人が母親のお腹の中にいた過去があり、忘れられない過去があります。私たち人間は過去に執着しますが、神様は私たちの過去に執着されません。

 

神様は、私たちの過ぎ去った日々の傷や痛み、苦しみ、恨みによって、私たちの心が奪われてしまわないことを願っておられます。過去の過ち、現代の言葉では、「黒歴史」 とも言いますが、誰しもが大なり小なりの過ちがあり、過去の傷や痛み、苦しみや恨みを伴って現在に至っています。

 

過去に自分を傷つけた人への恨みをいつまでも持ち続けたり、また、自分が最も輝いていた頃、称賛されていた頃にいつまでも縛られている状態、過去の栄光に心を奪われるなら、未来が壊れてしまいます。これらの事にいつまでも縛られていたのでは、人は成長することはできません。過去から解放されるために、私たちに必要なこと、それは “赦し” です。赦しは、過ぎた時間に対する和解であり、未来を開く扉でもあります。

 

イェス様の十字架は、私たちを赦してくださる神の愛の証拠であり、赦しの証拠です。また赦しは、過去に執着させようとする罠から抜け出すための鍵です。未来を暗く絶望的に見せ、無気力にさせる過去の記憶や傷から抜け出すためには、赦しが必要なのです。

 

赦しは、私たちを自由にし、私たちへの神の御心をにぎらせる道です。赦しの特徴は、赦された人が赦すことができ、赦す人が赦しを受けることができるということです。

 

ペテロがイェス様に、兄弟が自分に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。と聞きました。当時、ユダヤ教の律法では、「三度までは赦しなさい。それ以上は赦さなくても良い」というものでしたから、それを踏まえた上で、ペテロは三度を上回る、しかも自分の基準を恐らく上回る完全数である「七」の回答をしたのではないかと思われます。

 

しかし、イェス様は想像を遥かに超えた回答をされるのです。

 

マタイの福音書18章22節 イェスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。これは、7×70=490回まで赦して、491回からは赦さなくていいということではなく、無制限に赦しなさいと言われているのです。そして、一万タラントの借りのある人の例えを話されました。

 

マタイの福音書18章23~32節を朗読 「このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、・・・

 

イェス様は、結論としてこのように教えられました。

 

33節 「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」

赦しに対する神の御心が三つあります。第一に、神様が私たちを赦してくださるということです。神様は、私たちの過去に注目されるのではなく、赦されることによって神の子となる未来に注目されます。

 

神様は過去の罪によって私たちをさばくことを願われません。

 

Ⅰヨハネの手紙1章9節  「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

過去の罪を悔い改めによって清算し、イェス様を信じる信仰により、救いに至ることを願っておられます。

 

神様は、罪により滅びに至ることを願われず、赦しを通して永遠のいのちに至ることを願っておられます。

赦しの始まりは、神様です。神様がまず私たちを赦してくださいました。

  イェス様は、ご自分を十字架につけた人々を赦し、とりなしの祈りをされました。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 

第二に、神様は、私たちも人を赦すことを願われます。神様が私たちを赦してくださったように、私たちが自分に罪を犯した者を赦すことにより、神の愛を示すことができるのです。イェス様は、「やられたら やり返す 倍返しだ」とは言われず、「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。」と言われました。

 

ステパノは、自分に向かって石を投げる人々に、意識が薄れゆく中で「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って彼らを赦しました。そして、彼は“眠りについた”(召された)と聖書に記されています。

 

ヨセフは自分をエジプトに奴隷として売り渡した兄たちを赦しました。赦しは、条件に満たされてするものではなく、みことばに従ってするものなのです。第三に、神様は赦しを通して私たちを祝福してくださいます。

 

実に驚くべき神の法則は、私たちが誰かを赦すなら、私たちが祝福されますが、誰かを呪い、憎み、赦さないなら、私たちが困難と苦痛を味わうということです。

 

ルカの福音書6章37節 「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」

 

ローマ書12章19節 「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが、報いをする、と主は言われる。」

 

これは重要なみことばです。

 

ですから、自ら手を下すことをせず、神様にすべてを委ね、任せましょう。

 

 赦しは、他の人を生かすだけでなく、私たちが祝福を受ける鍵なのです。悪を善に変えて、多くの人のいのちを救う道があるとしたら、それは赦しです。互いに赦しあえば戦争は起きないのです。

 

そうは言っても実際には、そう簡単に赦すことは出来ないのが現状ではないでしょうか。では、どうすれば良いのでしょう。私たちは、自分の力だけで赦すことは決して出来ないのです。それには、聖霊の助けが必要です。神に拠り頼むこと、祈りが必要だと言うことです。

 

つまり、“私たちは神様なしでは、生きて行けない存在だということを知らなければなりません。”

 

箴言3章5~6節

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」

 

 

恵みを受けた人のバロメーター

 

 私は、人に対してどのような態度で接しているかによって、神様と自分の関係を点検します。それが最も正確なバロメーター(状態を知る基準)だからです。人に優しくできるのは、自分がすべてうまくいっている時ではありません。むしろ、失敗して転んで、神様の御前で泣き叫んでいる時です。そんな時は、人が何か自分に過ちを犯したとしても、あまり気になりません。自分が神様の恵みなしでは立ち上がれないようなとき、ほかの人に優しくなることができるのです。

 

 それで、私はいつも「主の恵みを私のたましいのそばに置き、人の過ちを覆うことができますように」と祈ります。私の中で恵みが底をつくと、人に対して厳しくなります。人に寛大であるのは、それだけ私の中に恵みがあるという証拠です。このように、私が受けた恵みと人に対する態度は、ダイレクトに繋がっていて、比例します。私の品性は、主のいつくしみによって毎日削っていただかなければトゲトゲしくなるしかないほど、欠点だらけだからです。

 

 自分の義が強いと、人に対して優しくなれません。それで、神様はそれを壊されます。自分自身に深く失望したとき、私たちは人に対してさらに優しくなれます。十字架から流れ始めた恵みの終着点は、私たちの心ではなく、この地の果てです。  私だけが赦されて終わりではなく、その恵みの恩恵はほかの人たちにも流れていくのです。

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Sarah Young著『Jesus Calling』より

(わたしは決してあなたをひとりにしない

〜主の声に耳を澄ます366日〜)

 

 

12月6日

 

わたしの近く

―可能なかぎり近くに

とどまっていなさい。

 

そうすれば、わたしが

あなたのために備えた道から

はずれることはないから⋯⋯。

 

これが

本道にとどまる

もっとも効果的な

方法だ。

 

 

同時に、

もっとも楽しめる

道でもある。

 

人は

敬虔な行いを

順守することで、

義務を増やす傾向がある。

 

これを実践することで、

彼らはわたしに

お金や時間、労力を

差し出すようになるが、

わたしが

いちばん望んでいるものを

明け渡すことはない―

―それは、

彼らの心である。

 

規則は

機械的に守ることが可能だ。

 

ひとたび習慣になれば、

最小の努力で、

ほとんど何も考えずに

守ることができる。

 

こうした

習慣性のある規則は、

偽りの安心感をもたらし、

魂をだまして

眠った状態にさせる。

 

わたしが、

わたしの子どもたちの内に

探し求めているのは、

わたしの

存在の喜びに

うち震える

目覚めた魂だ。

 

わたしは人間を、

永遠に

わたしを崇め、

わたしを楽しむように

創造した。

 

わたしは

喜びをもたらす―

ーあなたの役目は、

わたしの近くで

生きることで

わたしの栄光を

讃えることだ。

 

申命6・5、

コロサイ3・23、

 

詩篇16・1

 

 

 

「金銭を愛すること」

 

私たちは日々の生活でお金を使わない日はほとんどありません。お金があればあるほど、私たちの生活の目に見える部分はより豊かに便利で楽になるかもしれません。これらは人間の肉の本性が好むものなので、人間は生まれながら自然に生きていたら金銭を愛する者になります。そしてこれはクリスチャンにとっても信仰生活をする上で大きな問題です。では金銭を愛することについて聖書はどのように言っているか見てみましょう。

 

Ⅰテモテ6章10節

「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」

 

「金銭を愛することがあらゆる悪の根となる」ということは金銭を愛することが元となって根となり、成長して他の罪や失敗につながるということです。この御言葉を理解するために、旧約聖書に登場するバラムを例に挙げるのが良いと思いました。民数記に荒野でイスラエルの民がモアブ人の神々を拝む事件がありました。これはバラムのバラクへの進言が引き起こしたものでした。イスラエルを堕落させたバラムを遡って見てみると、金銭を愛することが元にあることが分かります。

御言葉に「ある人たちは金銭を追い求めたために信仰から迷い出て」とあります。金銭を愛することは人を盲目にします。バラムもこのために霊的に盲目となり、ろばでさえ見ることができた主の使いが見えませんでした。またバラムは預言者でしたが、最終的には占い師と聖書に記されています。御言葉に「非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」とあります。バラムの最期はイスラエル人に剣で刺し殺され、御言葉の文字通りの結果となっています。単にこれは剣で刺されるということを意味するのではなく、苦々しい結果を招くということです。 一人の人物を通してこの御言葉を見てみましたが、金銭を愛することで私たちに良いことは何もないようです。「金銭を愛する者は金銭に満足しない」と伝道者の書5章10節に記されています。しかし、イエス様を愛して信頼を置くものは渇くことがありません。私たちは主にも仕え、富にも仕えるということはできないので、どちらかを選ばなければなりません。私たちが信じるイエス様は経済の試みにももちろん打ち勝たれた方です。その御方の霊が私たちの内にあります。私たちが心を決めて聖霊様に助けを求めるなら、肉の思いである金銭を愛することをやめ、より神様の祝福を受け、神様に喜ばれる人生を生きことができます。