Yくんの証

私はクリスチャンの家庭に産まれました。なので産まれた頃から教会に通っており、神様の存在も自然と信じていました。私の名前の由来は詩篇118篇15節の  聞け、勝利の喜ばしい歌が正しい者の天幕にある。『主の右の手は勇ましい働きをなし、 という箇所からとられました。

 小さい頃は友達と遊ぶ事が大好きでほとんど毎日友達と遊んでいたので、日曜日に遊べない事はとても苦痛でした。心の奥では神様を信じていたので毎週日曜日は教会に行ってはいましたが、子供礼拝が終わり大人の礼拝が始まると隣の部屋へ行っておもちゃで遊んだり、小学生の頃は礼拝中にこっそり携帯ゲームをしたりなどしてほとんど信仰はありませんでした。天国に入るには死の直前に祈って悔い改めればいいや、と思っていたほど本当にいいかげんでした。

 洗礼を受けたのは確か10才の頃で、心の底では神様を信じているという理由で重要さもよく分からずに軽い気持ちで受けたのを覚えています。

 身の回りの人が教会に行っていないからといって教会を休んだり、非行に走るなどは特にありませんでしたが、真面目な時と不真面目な時の波がありました。例えば御言葉を聞いてここの箇所良いなと思って一週間覚えて行動しますが一週間経つと忘れてしまったり、自分の祈りが聞かれた時はすごく感謝しますが、祈りがなかなか聞かれない時は全く感謝しない。神様が主人であるべきなのに自分が主人になっていました。

  年を重ね、教会に通う中でだんだんと神様の喜ばれることをしたいと思うようになりました。きっかけは恐らくコリント人への手紙 I 6章20節とローマ人への手紙12章全体を聞いてからだと思います。礼拝への態度も霊と誠をもって捧げたいと思うように神様によって変えられました。

  

コリント人への手紙 I 6章20節

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。